東京発展裏話 #7
今も残る秘密の気球格納庫
〜千葉市の旧陸軍気球隊格納庫〜
(2000年3月4日 記)
(2000年11月22日 加筆修正)
千葉県千葉市稲毛区作草部(さくさべ)1丁目の住宅街の中。団地、民家、畑が混在する台地の上に、一風変わった建物が一棟建っています。下の写真がその外観です。
旧日本陸軍「気球隊」の「気球格納庫」を転用した倉庫
この建物、川光倉庫(株)という民間企業の倉庫となっていますが、重厚な造り、4、5階建てに相当するほど天井が高い尖りドームの形状、現在は使用していませんが、正面に背の高い大きな引き戸を付けていた事を彷彿とさせるガイドレールの跡など、ただの倉庫とは思えない特徴のある建築物です。まるで空港にある飛行機の格納庫の様です。
この場所は第二次世界大戦まで旧日本陸軍の工兵隊のひとつ「気球隊」が置かれた場所でした。そしてこのただならぬ建物は、その気球隊の「気球格納庫」として使用されていたものでした。その形の通り、まさに格納庫だったのです。
気球隊は近衛師団に属し、部隊を当時の千葉県都賀(つが)村(現在地)に置き、気球を使った上空からの偵察や調査観測を任務としていたということが記録に残っています。
旧陸軍気球隊格納庫の位置図
気球格納庫は1927(昭和2)年、この建物の他、同様のものをもう一棟、道を挟んだ現在の公務員団地の敷地部分に配置する形で建てられました。それぞれに直径15m程度の気球を膨らました状態のまま2艇づつ格納、出入庫することが可能な構造となっていました。
1935(昭和10)年に東京市土木局内の都市美協会が「建築の東京」という建築の写真集を発行しました。その当時の東京を代表する、大正末期から昭和初期の建築物を477点収録しています。「帝国議会議事堂(現・国会議事堂)」や「歌舞伎座」、「丸の内ビル」等が紹介されているのですが、その中で唯一、所在地を秘密のまま掲載している「某阻塞気球格納庫」(阻塞気球=航空機の上空侵入を防ぐための繋留式気球)という建物があります。
機密の故か、写真集では建物内部から外を見通す角度で撮影されていて、外観は写されていないのですが、倉庫会社の方の好意で内部を見せていただいたところ、骨組みの重ねトラス(三角組み)構造や、トラスと出入口の位置関係などから、この建物が「建築の東京」に紹介されていた「格納庫」であった事が分かります。
空襲にも破壊されず残ったこの建物は、戦後間もない1946(昭和21)年頃、校舎を焼失した近くの都賀小学校の仮校舎として一時的に使用された後、1958(昭和33)年に敷地南西部は公務員宿舎用地などとして転用、北東部は敷地ごと民間に払い下げられました。公務員宿舎用地にあった格納庫は取り壊されたとのことです(一説には千葉公園の体育館として移設したとの話もあり。未確認)。
倉庫会社に渡った敷地の格納庫は、その頑丈な建物をそのまま利用し、米穀を保管する倉庫として使用し現在に至っています。内部や入り口は倉庫として使用するため区切られるなど改装を施されていますが、外見や骨格部分は当時のまま残されています。
骨組みの鉄骨は厚さが約3-5mmの山型鋼、これをリベット打ち接続で重ねトラス構造に組む重厚な造りで、これで柱のないドーム構造体を構成しています。また、建物右奥に、隊員の宿舎となっていた一室が今でも残されており、その仕切となるコンクリート壁は約20cmもの厚さがあるそうです。
旧陸軍気球隊の敷地境界を示す標石柱
この格納庫がある区画の対角線上、現在は唱題寺というお寺の敷地の東端、コンクリート塀の基礎部分に、一辺約15cmの花崗岩製石柱が埋まっているのが確認できます(写真中央・丸印部分)。高さ5cm程度しか地表に見えず、さらに欠けているため文字を確認できませんでしたが、これがおそらく旧陸軍気球隊の敷地境界を示す標石柱であったと考えられます。
かつては軍事機密上、所在地を証すことをはばかられたこの建物ですが、近年はその歴史的価値が再確認されつつあり、地元千葉市も調査に訪れているとのことです。
(参考文献)
産経新聞社千葉総局編著(1998):「房総発見100」, 崙書房出版, 222p.
太平洋戦争研究会編(1995):「図説帝國陸軍 旧日本陸軍完全ガイド」, 翔泳社,
325p.
松葉一清(1997):「帝都復興せり!『建築の東京』を歩く1986-1997」,朝日新聞社,260p.
(2000年11月22日 加筆修正)
サーチエンジン経由で当サイトをご覧下さった方から「阻塞気球」に関して補足を頂きました。
ご指摘に基づき加筆修正しました。ありがとうございました。